鳥に“見つめ返される”体験とは?——『I Became a Birdwatcher』が描く、鳥類観察の奥深き世界

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この記事の途中に、以下の記事の引用を含んでいます。
I Became a Birdwatcher


死んだ鳥との出会いから始まった“目覚め”——新たな視座で語られるバードウォッチング

今回ご紹介するのは、作家アダム・ニコルソンによるエッセイ『I Became a Birdwatcher』だ。
本記事は、著者がそれまで興味を持たなかった「鳥」という存在とどのように向き合い、その体験が自らの世界観をいかに変えたのかを、個人の視点で深く掘り下げて描いている。

バードウォッチング(鳥類観察)は単なる趣味領域にとどまらず、私たち人間が自然という“他者”とどのように関わり得るのか、その哲学的な意味さえ問い直す。
この記事を読み進めると、鳥を観察することがなぜ人間社会や現代文化の「視野」に対する批判になりうるのか、深い示唆が浮かび上がってきた。


“鳥を見つめる”とはどういうことか?——著者の主張と印象的な引用

まず、記事全体が一羽の死んだワタリガラスとの遭遇から始まる点が特徴的だ。
「The dead bird was not the bird. The body seemed only to have been the means by which the bird could have become itself. But that moment of closeness to such an animal was the beginning of something for me.」

この箇所は、「死んだ鳥はその鳥ではない。身体は鳥が自分自身になるための手段に過ぎなかった。しかしこの動物への近しさの瞬間が、私にとって何かしらの始まりだった」と訳せる。
鳥という“存在”と“物体”の違いを意識し始めた著者が、鳥に惹かれるきっかけを描写している。

また、記事の中で著者は、なぜ鳥に無関心だったのか、その文化的・社会的背景にも触れる。
「A view, or a landscape as it was always more grandly described, precludes a love of anything else… The Britain Cocker portrayed has fetishized a ‘landscape beauty almost devoid of biodiversity … Nature is slipping away from these islands … Not since the last ice age has Britain been so stripped bare of its natural inhabitants.’」

これを要約すれば、「景観(ランドスケープ)への偏重は、他のものへの愛着を排除する」という指摘があり、現代イギリスは生物多様性なき“美しい景観”を崇拝するあまり、本来そこにいた野生の生き物が激減しているという問題意識が示されている。

また、「I have come to think that the inaccessibility of birds is the heart of their marvelousness.」とあるように、著者は鳥の“手に入らなさ”“近寄れなさ”こそが、鳥の驚異であると述べている。


“見られる存在”から“観察する主体”へ——鳥と人間のすれ違いの意味

この記事の大きなテーマは、景観至上主義への批判だ。
かつての自分や父のように“遠くから見る”ことだけに価値を置く人間は、樹木、草花、ましてや鳥の細やかな存在感などには無頓着になる。
「View addiction(景観中毒)」という表現で批判されているこの態度は、多くの現代人にも当てはまりうる。

鳥はいつでもそこに居るようでいて、実は巧妙に視線を避け、私たちを“観察して”いる存在なのだ。
著者はこんな実験的な観察にも触れている。
人が両目で鳥をじっと見ると、警戒して逃げてしまう。
「a pair of eyes is more frightening to them than a single eye-shaped form」とし、片目で見る場合と両目で見る場合で鳥の反応が違うという記述だ。
自然界での捕食者が前方に両目を持つことから、人間の“二つの目”に鳥が本能的な恐怖を覚えるという知見は、動物行動学的にも極めて興味深い。

さらに、鳥は人間を「大きな哺乳類」として、「What is its world, its intention? What does it want?」とおそらく警戒している。
バードウォッチングとは、まさに人が鳥を一方的に観察するだけでなく、“相互に見つめ合う”現象なのである。
この他者性・不可知性が鳥を際立たせ、その孤高さが人々を惹きつける、と著者は述べている。


「わからなさ」がもたらす魅力——鳥観察と現代社会の視野狭窄

私自身、著者の考察に深く共感した。
都市部に暮らす多くの人は、景観の美しさや眺望の良さを求め、日常の中にいる小さな鳥や生物に無関心だ。
「日常の鳥たちは小さく、素早く、知るのが難しい。習慣に忍耐と服従を要するから興味を持たなかった」と著者が語るように、私たちは急かされる社会で「ゆっくり立ち止まり、何かを深く観察する」ことそのものを忘れがちである。

特に印象的だったのが、フランスの作曲家メシアンの言葉「You don’t hear birds, you hear worlds」の引用だ。
単なる鳥の鳴き声(noise)ではなく、“世界そのもの”が響いているのだという指摘は、鳥を通じて自然界の全体性・複雑さ・他者性に意識を向けさせる。

また、多くの人がスマホや映像で“何でもすぐに見える/分かる”感覚に浸り、いきものの「自律性」「自分本位さ」を忘れてしまう。
鳥はその「見せたくない」「知られたくない」「逃げたい」の態度で、現代社会の“見せる/見られる”構造自体にカウンターを当てている。
だからこそ、私たちは彼らを「知りたくてたまらない、でも決して完全には知り得ない」存在として慕い続けるのだろう。


日々の視線にひそむ新たな問い——あなたも“鳥を見る”世界へ

本記事から得られる最大の示唆は、「日常のまなざし」を変えることの重要性である。
「遠くを眺めて満足するだけ」でなく、身近な生き物一つひとつに意識的に目を向けてみる。
そうすることで、見慣れた景色がまったく違った“知らない世界”として立ち上がってくるはずだ。

バードウォッチングは単なる趣味、レクリエーションでは終わらない。
自分と自然、観察者と観察されるもの——その境界を再考する冒険なのだ。

この記事を読んで、少しでも「今、そばにいる鳥たちは何を考え、何を見ているのだろう?」と思ったとしたら、それがすでに“新しい目”への第一歩だろう。
「見る」ことの日常性と、その中に潜む不可知性への敬意を、私たち現代人こそが取り戻す必要がある。


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