この記事の途中に、以下の記事の引用を含んでいます。
Cryptic carnivores: why feline hair makes cats (Felis catus) look vegan
【1. 猫の毛が語る意外な真実――本当に“肉食”らしいのはどっち?】
「食べたもので身体はできている」とはよく言いますが、果たしてそれはどれほど正しいのでしょうか。
猫と人間の毛髪を科学的に分析し、その食性の正体に迫る研究が発表されました。
この研究はなんと、「肉食動物であるはずの猫の毛が、なぜか“菜食主義者”の人間の毛によく似ている」という、従来の常識を覆す驚きの発見を明らかにしています。
一体どういう現象が、猫の毛の中で起こっているのでしょうか?
そして、この事実は生態学や考古学分野にどんな影響をもたらすのでしょうか。
【2. 研究が突き付けた“誤解”――毛髪の窒素同位体から見えてきたもの】
今回取り上げる研究では、ウィーン大学のチームが「安定同位体分析」という手法を用いて、猫の毛やヒゲ、そして市販のキャットフードの窒素同位体比を調べました。
対照群として、人間の毛(ヴィーガン・ベジタリアン・オムニボアの3タイプ)も同様に調査。
特に注目したのは「δ15N(デルタ15エヌ)」という値で、これは動物の食物連鎖上の位置――ざっくり言えば“どれだけ肉食よりか・草食よりか”を示す指標です。
“When we tested cats’ hair for nitrogen isotopes, the results made them look like they eat mostly plants,” said first co-author Viktoria Zechner. “This means that looking isotopically at animal hair alone can sometimes be misleading about their diet.”
(「猫の毛の窒素同位体を調べたところ、主に植物を食べているような結果になった。…動物の毛の同位体値だけで食性を推定すると誤解を招く可能性がある」)
実際、ヒトで言えば肉食に近い雑食(オムニボア)の毛髪δ15Nは8.8‰、ベジタリアンは8.2‰、ヴィーガンで7.2‰と下がっていきます。
ところが、猫の毛やヒゲの値は6.6‰、6.5‰と、なんと「ヴィーガンの人間」の値に近いという結果でした。
さらにこの研究は、「猫やヒトなど、同じ肉食・雑食でもTDF(栄養段階判別係数)が異なり、猫は1.6‰、ヒトでは4.7‰と大きな差があった」と報告しています。
【3. なぜ猫だけが“毛の中で菜食主義者”になるのか?その科学的背景】
さて、ここが核心です。
なぜ“真性肉食動物”である猫が、毛髪やヒゲに反映される窒素同位体パターンだけ“ヴィーガン”に近づいてしまうのでしょう?
この現象には生理学的な意味があります。
猫は「自分と非常に近い組成を持つ、質の高い動物性タンパク質」を主に摂っています。
さらに、猫の身体はこれらのアミノ酸をほぼ無駄なく毛タンパク質(ケラチン)に転用できるほど“効率重視”に進化しています。
“Because they eat high-quality meat protein that closely matches their own bodies’ amino acid makeup, they can channel those dietary amino acids straight into their hair protein (keratin) with only minimal isotopic changes,” Tiutiunnyk explained.
(「猫は高品質な肉タンパク質を摂るため、食事中のアミノ酸をほとんどそのまま自身の毛タンパク質に用いる。この際、わずかなしか同位体組成の変化が生じない」)
つまり「なんでも効率よく使い切れる猫」は、消化・代謝過程で生じるはずの窒素同位体“濃縮”(δ15Nの増加)が非常に僅か――そのため、肉食を反映したはずの毛が見かけ上“草食型”になってしまうという、思いもよらない事態が起きているのです。
対して、人間など他の動物では、摂取タンパク質のアミノ酸が自身の組成とそこまで一致しません。
よって、体内で分解や再合成を繰り返すうちに“濃縮”が進み、そのぶんδ15Nの値が毛髪中で高くなるのです。
【4. 生態学・考古学的推論への警鐘――数値が示すのは“食材”ではない!?】
この研究が社会的に持つインパクトは決して小さくありません。
安定同位体分析は、動物の食性や古代人類の食生活、さらには生態系の食物連鎖構造を手軽に推測できる強力な科学ツールです。
しかし本論文が示したのは、そもそも「動物種ごとの生理的特性」や「食材と体成分のアミノ酸一致度」といった隠れたバイアスが、推論の前提そのものに食い込んでいるという事実です。
例えば、考古学調査などで「低いδ15N値だから、この動物やヒトは菜食性だ」と決めつけるのは大きな危険を孕んでいます。
猫のような効率的な肉食動物では「上昇せずに低く抑えられる」ため、実際の摂取食材とは大きく食い違って見えてしまう可能性が高いわけです。
“It also means that low δ15N values are not always proof of a plant-based diet but can reflect other things such as diet composition or metabolism efficiency.”
(「低いδ15N値は必ずしも植物食性の証拠ではなく、食材の質や代謝効率といった他の要因の反映かもしれない」)
また、今回の研究対象は「毛(ケラチン)」や「ヒゲ」等のタンパク質組織に限定されていましたが、他の組織(血液・筋肉・骨など)でも同じ現象が起こるのかは今後の課題とされています。
【5. 真の“食性”を知るには?わたしたちが得るべき教訓】
この発見が私たちに突き付けるのは、道具への絶対的信頼ではなく「何がどう推論されているのか、その限界を常に意識すべきだ」という学問的姿勢です。
「毛髪同位体分析だけで、古代文明の食性・生活様式を丸裸にする」――そんなロマンも、現実の生理学・代謝機構まではカバーできていませんでした。
猫が示した“誤解を生む毛髪サイン”は、その盲点を痛烈に突いています。
このことから、今後の生態学や考古学の研究では
– 対象種ごとの代謝・生理特性や食材アミノ酸組成への注目
– 複数組織・多手法解析の推進
– TDF等パラメータの「汎用ではない」ことの認識
など、より緻密かつ包括的なアプローチが求められると考えます。
また、一般の方がメディア等で「〇〇人の毛を調べたら野菜ばかり食べていた!」という言説に触れた際は、シンプルな“食材と毛の関係”を鵜呑みにせずに「生理学的な裏側」を想像する広い視野も求められるでしょう。
【まとめ:猫の毛は語る――科学的推論に必要な“多角的まなざし”とは】
生物は「食べたもの」でできている。
でも、その“でき方”はときに想像以上に複雑です。
猫の毛髪の窒素同位体が示した意外な真実は、科学的推論における“落とし穴”と“視野の広さ”の重要性をあらためて教えてくれました。
あなたの飼い猫の毛――それは肉食動物である証にはなりません。
その背後には、「いかに効率的に身体をつくれるか」という、驚くべき進化の戦略が隠されていました。
生物学から人類史まで、“数値”は一側面に過ぎません。
真の姿を知るためには、対象への深い知識と、方法論の限界を見極める冷静なまなざし――それがこれからのサイエンスには不可欠なのです。
categories:[science]


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