この記事の途中に、以下の記事の引用を含んでいます。
Why an abundance of choice is not the same as freedom
“選択肢の豊富さ”に潜む違和感とは?
現代社会に生きる私たちは、日々無数の選択をしています。
朝のコーヒーひとつとっても、「スキムミルク?全乳?クリーム?それともブラック?砂糖は?いや、そもそも紅茶にする?」と、小さな“選び”の連鎖が延々と続いていきます。
この「自分で選べること」こそが“自由”の象徴だと感じている人も多いでしょう。
しかし、Why an abundance of choice is not the same as freedomの記事は、「選択肢が多い=自由」という考え方に鋭く疑問を投げかけています。
果たして、選択肢の豊富さと本当の自由は、同じものなのでしょうか?
選択の歴史と現代社会 ― 記事が語ること
この記事では、選択肢の豊かさと個人の自由が同一視される現代的な価値観が、実はごく最近生まれた文化的傾向である、と論じられています。
“Perusing a menu of options to decide what best matches individual desires and values – which is what we generally mean today by making a choice – is a key feature of modern democratic and consumer culture alike. It is also an exalted one.”
「自分の欲望や価値観に最も合うものを選ぶ——これがいわゆる現代における“選択”の意味ですが、それは消費者文化や民主主義に不可欠な要素であり、並々ならぬ賞賛の対象となってきました。」
しかし、記事は以下のような批判にも言及しています。
行動経済学者たちは「大半の人は選択が実は得意ではない」と指摘し、哲学者的視点では「選択の重視が自己中心主義を助長し、社会的連帯や公共善への配慮を弱めている」と警鐘を鳴らします。
また、社会学者の立場からは「選択できる範囲が狭い人——例えば貧困層——はしばしば、“良い選択肢を選ばなかった本人の責任”にされがち」と問題を示しています。
“選択”が自由の代名詞となった歴史的背景
ここで重要なのは、「自由=選択肢の多さ」という発想が普遍的なものでも、昔から当たり前だったわけでもない点です。
記事によれば、17〜18世紀の商業と宗教の変化が、この価値観の始まりでした。
植民地貿易や都市化によって、庶民もカリコ(南アジア産の色鮮やかな布)などの商品から好みを選ぶ楽しみを得るようになります。
さらに、プロテスタントの「信仰の自由」や、複数の教会・講演・書物から“信念やアイデアすら“選ぶ””習慣も根付いていきます。
19世紀になると、結婚や仕事選びにも“個人の選択”という価値観が広がりました。
“Since then, choice has increasingly become value-neutral, a matter of one’s own interior preferences being externalised in the act of selection.”
「選択は次第に“価値中立的”な営みとなり、“内部の好みや欲望を、選ぶという行為で外在化する”ものになっていきました。」
この歴史が示すのは、選択肢の多さと自由の結びつきは、モノも信用も流動化・価値多元化した近代以降の現象に過ぎないということです。
面白いことに、多くの人が感じている「自由さ」こそ、非常に“時代精神”の反映なのです。
“選択の自由信仰” への疑問と現代社会の光と影
この記事が最も鋭く問いかけているのは、「自由=選択肢の豊富さ」を絶対視する社会が、私たちにもたらしたプラス・マイナス両面の影響です。
選択肢の多さが私たちを幸せにした面
自由恋愛やキャリア選択、女性の参政権やリプロダクティブ・ライツ(生殖に関する権利)の拡大は、「選ぶこと」が解放の象徴として輝いた例でしょう。
例えば、アメリカのフェミニストBetty Friedanは「女性解放とは“選ぶ力”を手にすることだ」と主張し、中絶の権利運動も「誰もが自分にとってベストな選択肢を選べるべきだ」と展開されてきました。
選択による“自由”の本質的な危うさ
しかし、記事が例示するように、“choice”フレーミングには構造的限界があります。
例えば中絶をめぐる論争では、「選択肢」という枠組みでは“いのち”など倫理的価値を十分に扱いきれませんでしたし、「選べる自由」は実際には経済的・制度的な条件に大きく左右されます。
そもそも、「選択枠から選べない人/選びの恩恵にあずかれない人」にとって、それは空虚な約束に過ぎません。
これは現代の消費社会にも当てはまります。
スーパーでずらりと並ぶ歯磨き粉やシリアルの棚を前に、「本当に違いはあるのか?選んでいる実感はあるか?」と問う人も少なくありません。
さらに、COVID-19パンデミック下の「マイ・ボディ・マイ・チョイス」論争や、環境規制撤廃の名目での「個人の選択の自由」主張など、選択の自由がしばしば公共の利益(公衆衛生や環境問題)と衝突するという問題も指摘されています。
選択のパラドックス:本当に自由になれるのか?
ここで私自身の視点も交えて考えたいのは、「とにかく選択肢が多ければ多いほど私たちは自由なのか?」という問いです。
1. 選択過多がもたらす“決断疲れ”と自己責任論
選択肢が増えれば増えるほど私たちは、パラドックス的に「迷い」「疲れ」、しばしば「後悔」することも増えます。
これは“決定疲れ(decision fatigue)”と呼ばれる現象です。
行動経済学でも、選択肢が多すぎると満足度や幸福感がむしろ下がる「選択のパラドックス」が広く知られています。
また、“選択重視社会”は往々にして「貧しいのは自己責任」「能力や工夫次第で夢は叶うはず」「不幸なのは、誤った選択のせい」といった見方を助長し、個人責任論が肥大化します。
これは格差や生まれた環境といった構造的要因への想像力を奪いかねません。
2. “選んだ先”の意味や倫理を失う危険
「選択肢があること」それ自体が神聖視されすぎると、なぜその選択をするのか・その選択が持つ社会的/倫理的意味は何なのか、といった部分が置き去りになる危険もあります。
記事の中絶論争と同様に、単なるバリエーションの増加が本来的な自由や共通善につながるわけではありません。
3. “選べるという幻想”と格差
AIや巨大プラットフォームによる“パーソナライズド選択”の進化が進んだ今、我々は「選んでいるつもりで実は選ばされている」状況に陥りやすくなっています。
さらに、最初から限られた選択肢しか与えられていない人々——経済的困窮者、マイノリティ、発展途上国の人々——にとって、“choice = freedom”という言説そのものが欺瞞です。
「選択する前に考える」――これからの“自由”の探し方
記事は最後に、次のような問いかけを投げています。
“We might instead ask ourselves: when, collectively, should we be invested in individual choice as a good way to solve a shared problem, and when not? And when should I, as an individual, try to maximise the opportunity to make choices about my own life versus not doing so?”
「個人の選択が本当に私たちの課題解決や幸せに役立つ場面はどこなのか?
そして、いつ私たちは自分の選択権を拡大すべきなのか・そうでないのか――意識的に問い直すことが重要だ」と。
自由の本質は、決して“選択肢の多さ”に単純化することはできません。
「思い通りにならないものを前に、自分自身が何を大切にするかを問うこと」
「ときには“自分で選ぶ”以外の方法(委ねる、集団で決める、あえて定型を受け入れるなど)も“自由”の別のかたちたりうる」——過去の自由観も参照しながら、我々はもっと賢く選択(あるいは非選択)に向き合う必要があるのではないでしょうか。
おわりに――あなたにとっての「自由」と「選択」とは?
現代の“選択の自由”神話は、私たちの生活や幸福観に大きな影響を与えてきました。
しかし、その影で見失われがちな倫理や公共性、格差や“選ばされている”ことへの自覚にも、今こそ目を向けるべきでしょう。
この先あなたが「何を選ぼうか」と迷ったとき、「そもそも私はなぜ迷うのか?」と立ち止まってみてください。
選択の自由とは、単なるオプションの多さではなく、“よりよい人生”や“より公正な社会”のための智慧や倫理観、そして自分や他者への深い想像力を試す営みであるはずです。
あなたにとっての真の自由とは何か――それを考えるきっかけになる、非常に示唆的な記事でした。
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