この記事の途中に、以下の記事の引用を含んでいます。
Public Schools Are Molds Not Platforms
教育現場にくすぶる「正しさ」──アメリカで起きている深刻な現状とは?
近年、アメリカにおける学校教育の政治的中立性が大きな議論となっています。
冒頭の記事は、教育が進むべき道について、今こそ社会全体で考えるべきであると問題提起しています。
特に、「公立学校は生徒や教師の表現の舞台(プラットフォーム)ではなく、市民を育てる型(モールド)であるべきだ」という主張が、今アメリカで起こる公教育の迷走を象徴しています。
本記事では、原稿の主張や背景を紹介しつつ、日本の教育現場への示唆も交えて、より深く、そして現実的に「公立学校の役割とあるべき姿」を掘り下げていきます。
「プラットフォーム」vs「モールド」――教師像をめぐる鋭い対立軸
引用元の記事は、Oklahoma州が「思想的な“覚醒”教育」を排除する目的で新たな教員テストを導入しようとしていることに触れ、こう論じています。
“Oklahoma lawmakers have proposed requiring teachers from New York and California to affirm their commitment to ‘Western civilization,’ ‘parental rights,’ and other values meant to counter the progressive ideology of teacher training programs… States have every reason to worry about ideological capture within schools of education. But trying to correct for one political orthodoxy by imposing another only deepens the problem.”
つまり、「進歩的な教育イデオロギー」(例えば多文化主義や社会正義教育)への警戒感から、逆に「西洋文明の価値観」や「保護者の権利」といった別の理念を強制する新制度を、その“歪みの是正”として提案しているわけです。
この対応に対し、著者は「どちらか一方のイデオロギーから他方への振り子運動は、本質的な問題解決にならない」と指摘しています。
教育は「自己表現」か「市民形成」か?──問題の核心にある教師観
アメリカだけでなく、多くの先進国で見られる傾向として、教師=社会変革者(change agent)という自己イメージが称揚されてきました。
記事では一例として、以下のような教師養成プログラムでよく見かける理念を挙げています。
“Teachers are told they are ‘change agents,’ ‘child advocates,’ or ‘architects of democracy.’ Schools of education speak of ‘challenging systems of oppression,’ ‘transforming society,’ and ‘teaching for justice.’ This language flatters teachers’ sense of purpose, but it misleads them about the nature of their work—particularly those who teach in public schools.”
この指摘は重要です。
つまり、現代の教師像が「社会や価値観を変革する使命」を帯びた“エージェント”として語られる一方で、その役割を「市民を形成し、維持する公的な土台づくり」と規定する伝統的な視点が忘れ去られているのではないか、というのです。
著者が強調するのは、公立学校の本質的役割は「shared knowledge, language, habits, and civic norms upon which self-government depends(自治社会を支える共通の知識・言語・習慣・市民規範)」を次世代に伝えることだ、という点にあります。
教師は「パフォーマー」ではなく「型」を守る職人であるべき
記事では、現代の「教師の職業倫理の喪失」が、教育現場に対する社会の信頼を損なっていると論じます。
“The public would rightly recoil if a judge, soldier, or police officer adopted the same view—that their primary loyalty is to their conscience rather than the Constitution or the law.”
ここで例示されているように、裁判官や警察官が「私は自分の良心のために働く」と言えば社会は混乱し、警戒します。
しかし、なぜか教師だけが「個人の使命感」を露わにして良いかのような雰囲気が教育界に蔓延している──これは日本でもしばしば指摘されることです。
作者は、“institutions that function as molds—shaping the character and conduct of those within them—rather than as platforms for self-expression”(「型」として機能し、内側の者を形作る存在)としての学校の役割を再評価すべきだ、と訴えます。
「処方箋」を間違えると教育はますます拡散する
Oklahomaのような政治的な“排除策”もまた、「右」からの振り子運動に過ぎません。
かつて“左”のイデオロギーが教師教育に色濃く染み込んだように、“右”の価値観も教師や学校に無理に強要すれば「反動」と「分断」をあおるばかりで、教育の本質からますます遠ざかります。
これはアメリカのみならず、イデオロギー対立に悩む世界各国でみられる傾向です。
中立性の担保が難しくなればなるほど、教育現場は「親・社会からの信頼」の基盤を失い、余計な外圧・監視にさらされる悪循環に入ります。
「中立」や「謙虚さ」がなぜプロフェッショナルの徳なのか?
ここで、著者が強く提言するのが「謙虚さ(humility)」に基づく職業倫理の再興です。
“Teachers are not free agents but figures of enormous influence over other people’s children. Their authority depends on the confidence that they will exercise their power judiciously on behalf of the public, not in service to their own personal or political convictions.”
教師は「個人的信念の体現者」ではなく、公的信託を担い、子どもの未来を左右する大きな影響力を持つ存在です。
だからこそ、「自分はどちらかのイデオロギーの信者ではなく、公的責務を負っている立場である」ことを自覚すべき、というのが筆者の核心的メッセージです。
また、職業的な「行動規範(code of conduct)」を導入することも提案されています。
これにより、教師は「個人的な思いや圧力」から距離を置き、「公平な公認的役割」として生徒に接する免罪符を持てるとともに、親や社会に対して説明責任を果たしやすくなるという利点があります。
教育現場の“政治化”を防げるか?──日本社会への示唆
日本では、「教師=聖職」という建前もあり、アメリカほど激しいイデオロギー闘争は表面化しづらいものの、教育の現場において同様の問題が徐々に生起しつつあります。
たとえば、道徳教育や歴史認識、ジェンダーをめぐる指導内容等を巡り、文科省や自治体、教師、保護者の間には度々摩擦が生じています。
個人的使命感が高じて「一方的な価値観の押し付け」や「自分の人生観を生徒に語る」事例は、現場ではさほど珍しくありません。
一方で、「何が中立か」「本当に教えるべき公的な価値観とは何か」というベースラインが曖昧なまま、現場の教師の“さじ加減”や“思い”に委ねられている現状も否めません。
「行動規範」や「職業倫理基準」を明文化し、「教師は公的信託者として謙虚に、バランス感覚を持って職務にあたる」文化を制度化する意義は、決してアメリカ固有の問題ではなく、日本社会にも確実に応用できる課題だといえるでしょう。
「謙虚さ」こそ公教育の信頼を再生する鍵──終わりに
この記事は、「社会の分断の時代」にあって、「公立学校は一部の思想や自己表現のための舞台ではなく、市民社会を支える型を繰り返し形成していく土台だ」と改めて位置付け直しました。
著者は、「教師は個人の主張ではなく、あくまで公的な立場と謙虚さに裏打ちされたプロフェッショナリズムを守るべき」と説き、その先にこそ公教育の社会的信頼の回復があるとします。
“Not a new orthodoxy, but a rediscovery of an old one: that public institutions serve best when they serve all, and when those who work in them understand that their authority rests not on self-expression, but on self-restraint.”
この気づきは、教育界のみならず、社会のあらゆる公的セクターが“自己表現”より“自己抑制”を重んじた時に再び共通善が取り戻されるのだ、という普遍的な洞察につながっています。
私たちも、教師や学校に“過剰な主張”や“私情に基づく振る舞い”を求めるのではなく、「すべての子どもにとってフェアな型」としての役割を尊重し、職業的“謙虚さ”を育むための議論を深めていく必要があるのではないでしょうか。
categories:[society]


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