この記事の途中に、以下の記事の引用を含んでいます。
What is mathematics? A classification based on universals
数学の「定義できなさ」と格闘する瞬間
「数学って何?」
そんな問を真正面から受け止めた経験、数学が苦手な人も、研究を志す人も、一度はあるのではないでしょうか。
今回ご紹介する Eduardo Bellani 氏の記事「What is mathematics? A classification based on universals」では、「数学をどう定義するべきか」という根源的なテーマに、哲学的な観点から大胆な切り口を与えています。
「私は、定義できない学問を学ぶ気になれないほどです」と語る著者が参照するのは、20世紀以降繰り返されてきた「普遍(Universals)」をめぐる哲学的対立です。
この記事では、その「核心」を論点ごとに深く掘り下げながら、なぜ数学を定義することが重要なのか、またそれぞれの立場がどんな世界観をもたらすのか、自身の視点も交えて解き明かしてみたいと思います。
数学観はふたつに分かれる?原文の問題提起
Bellani氏は、「普遍性(Universals)」という哲学的観点から2つの対立する立場を軸に数学を分類します。
記事の中核的主張は以下の通りです。
“At the core of philosophical inquiry, one finds a deep division into 2 opposites as their regard to the universals, realism and nominalism (and its kantian variant, conceptualism) (De Wulf 1911). Taking that into consideration and (Franklin 2014), Here is a taxonomy of definitions for what is mathematics:
Realism
– Platonism: Knowledge of another dimension
– Aristotelianism: Knowledge of instantiation of universals and structure (parts to whole)Nominalism
– Language: A Language of science
– Logicism: A process to guide inferences
– Formalism: The manipulation of uninterpreted symbols”
すなわち数学を、「リアリズム側」と「ノミナリズム側」という2大潮流に定義し、それぞれ複数の細かな立場が内包されていると整理しています。
「数学とは何か」という問いは、誰もが納得する一つの答えに帰着しない「哲学的アポリア」と呼べる部分があります。
Bellani氏が強調するのは、そのパラドックス自体を分類的に整理し、俯瞰できる地図にすることの意義なのです。
「リアリズム」vs「ノミナリズム」— 数学観の深すぎる分岐点
Bellani氏の主張に従って、ここでは「リアリズム」と「ノミナリズム」という切り口で数学観を詳しく紐解いてみましょう。
「リアリズム」:数学は現実に“ある”ものか?
リアリズムは「普遍が実在する」と考える立場です。
-
プラトニズム(Platonism)は「数学的対象は、我々の経験世界とは別次元に実在している」と見る立場です。
例えば、円周率や無理数、無限集合などは人類が発明したのでなく、発見した“客観的実体”だと考えます。 -
アリストテレス主義(Aristotelianism)は、プラトンほど浮世離れしていません。
普遍は現実世界に「具現化」の形で宿っていると考え、「全体と部分」「構造」といった観点から、例えば木の葉に見出される「対称性」「数」そのものが、現実世界に実体として存在するという主張です。
「ノミナリズム」:数学は“言葉遊び”なのか?
一方のノミナリズムは、「普遍は“実在”しない。名前や記号、概念でしかない」と考えます。
-
言語説(Language)は「数学は科学の“共通言語”である」と割り切ります。
現象を世界標準で記述できるだけで、何か実体があるとまでは踏み込みません。 -
論理主義(Logicism)は、数や集合といった具体的概念すら「推論のためのプロセス」としてのみ捉えます。
つまり、数学=思考の道具、論理展開の枠組みでしかないという視点です。 -
形式主義(Formalism)はさらに過激。
数学は「意味付けをされていない記号操作」と捉えます。
例えば、“a + b = b + a” という式は、「どんな意味があろうが、定義した記号規則に従い機械的に変形する」だけで、意味そのものを持たない、とまで主張します。
現代数学における分類の意義と、そのジレンマ
Bellani氏の記事は、単なる分類の提示で終わらせません。
なぜこの分類が現代にとって意味があるのか、また「定義の不能性」とどう付き合うかという問を投げかけています。
たしかに、数学教育の現場や、AI分野の数理モデル、さらには物理学の基礎理論においても「数学的実体はそもそも必要か?」という問いは避けられません。
例を挙げましょう。
- 量子力学の波動関数(抽象空間にある数学的存在)は、「現実に存在する」と見なすか否かで解釈がガラリと変わります。
- コンピュータサイエンスやAIでは、形式主義による問題定義(ルールと記号操作の徹底)がソフトウェアに強い影響を及ぼします。
- 一方、現代の数学者の約8割が「どちらかの立場では割り切れない」と率直に語るのも事実です。
科学技術の進歩により、数学的対象が「現実」にどれほど深く影響を持つのか—量子暗号、ゼータ関数と素数分布…
実はこの「哲学的立場」の違いが、技術開発や新理論のきっかけとなることもあるのです。
哲学は役に立つのか?私たちが取るべき視点
記事を読み進めて気付かされるのは、「数学とは何か?」の定義そのものを問い直す作業の重要性です。
- 例えば学校教育では、「実在するもの」として数や図形を教えるリアリズム的アプローチが主流です。
- しかし、現代数学は形式主義的な「自由度」を活かした抽象的思考が不可欠となっています。
- 企業のAI開発や金融工学では、形式主義に徹することで現実世界との距離を保ち、普遍性=再現性を担保しています。
このように、私たちが日常的に遭遇する数式やアルゴリズムも、実際には「哲学的前提の上に立脚している」ことが、この記事からは明確に浮かび上がります。
また、Bellani氏が示したように「分類図」によって議論を可視化することは、対立する両極端の立場に折り合いをつけたり、既存の考え方を相対化するヒントにもなります。
あなたの「数学観」はどこにある?抜け落ちがちな視点にも注目
この記事を読むと、「自分は無意識にどの立場で数学を理解していたのだろう?」と自問したくなります。
- “無意味なパズル”と感じる人は形式主義寄りでしょう。
- “世界を記述する言葉”や“真理の発見”と捉える人は言語説やリアリズムに近い。
- “無限”や“虚数”のような非現実的対象をも“ある”と信じられるか?はプラトニズムの核心です。
また、「学ぶ動機」と「社会的意義」がどの立場を取るかによって揺れ動くという点も看過できません。
加えて、数学の「便利さ」はノミナリズム的な現実適用力に支えられますが、その「美しさ」「驚き」はリアリズム的な神秘性への憧憬と裏表です。
数学のパラドックスを自覚的に受け入れることで、私たちはより柔軟な理解—つまり「使いつつ、問い続ける」態度—が持てるのではないでしょうか。
まとめ:数学定義の迷宮を歩く勇気
Bellani氏の記事は、一見あたりまえの「数学ってなに?」という問いの背後に、私たちが普段見落としがちな深い迷宮が広がっていることを改めて示してくれます。
- 「分類」そのものが答えになり得ること
- 論理や記号の操作が、現実の理解や技術発展にどう直結するのか
- 数学を学び、教え、作る動機が、立場によって決定的に変わること
これらを俯瞰できる視野は、決して無駄ではありません。
哲学的知見に立脚した「批判的思考」を持つことで、数学のみならず全ての知的営みにおいて「より健全な懐疑」と「創造の余地」を手に入れるのです。
読者のみなさん自身が、この記事をきっかけに「自分の数学観」を問い直してみる…
それこそが、数学を「知る」喜びの最初の一歩ではないでしょうか。
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