この記事の途中に、以下の記事の引用を含んでいます。
Embryo selection: what we talk about when we talk about risk
「驚きの未来技術」か?多遺伝子リスク予測と胚選択の光と影
近年、遺伝子情報をもとに病気の発症リスクを予測し、将来の健康リスク低減を目指す技術が急速に発展しています。
とりわけ「多遺伝子スコア(polygenic risk score、以下PRS)」を用いて、将来生まれる子どもの「健康リスクを低減できる」と謳う「胚(はい)選択」はメディアでも頻繁に話題となっています。
しかし、実際にこれらの技術を用いるとき、「リスク低減」や「健康」にはどこまで実態が伴うのでしょうか?
今回ご紹介する記事は、そうした“リスク”という曖昧な言葉が持つ意味と、統計手法や社会的直感から生まれる誤解について、極めて論理的・批判的に論じています。
「すごい!50%のリスク減!」は本当?――記事が指摘するリスクの“トリック”
まず、胚選択技術は「ある疾患のリスクが×%減る」と宣伝されがちです。
しかし、その根底にある“リスク”の意味を問うことがこの記事の核心です。
引用:
The liability threshold model…if it moves a person below the liability threshold, they are by definition “cured”. A relative risk reduction of e.g. 20% under the liability threshold model means that 20% of people who would have been completely ill are instead perfectly healthy — which is probably the way most people intuitively think about risk reduction.
(出典: Embryo selection: what we talk about when we talk about risk)
つまり、多くの人は「20%のリスク減」と聞くと、「本来100人かかるはずの病気のうち、20人が“完全に健康”になる」と解釈します。
ところが、このモデルには大きな落とし穴がある、と筆者は指摘します。
「リスク」の正体を暴く――胚選択と”線引きの暴力(dichotomania)”
ダイエットと同じ!? 連続的な身体データを「健康」「病気」で分ける危うさ
実は、肥満や糖尿病、高血圧など、多くの疾患は「数値がこのラインを超えたら病気」という“閾値”によって区分されています。
しかし、現実にはこれらは連続した現象であり、「わずかに基準を下回ったから健康」というものではありません。
記事ではこの現象を「dichotomania(ディコトマニア)」――「なんでも単純に二分化したがる医療の傾向」と批判的に呼びます。
引用:
This tendency to impose arbitrary cutoffs on continuous values is a common issue in medicine, sometimes referred to as “dichotomania”. …a patient who sees an advertisement for a “50% risk reduction for Class III obesity” is probably assuming that they have a 50% chance of being brought down to healthy weight, not that they have a chance to be five pounds lighter and move from the low end of morbidly obese to the high end of moderately obese.
(出典: Embryo selection: what we talk about when we talk about risk)
例えば、「BMI40超でクラスIII肥満→39.9なら健康」と区切ることに、大きな医学的な意味はありません。
しかも胚選択によるリスク低減は、実際には“BMIが1ポイント下がるだけ”という程度の変化にもかかわらず、「50%リスク減!」と宣伝されます。
このズレが、現実の医療現場や患者の期待とのギャップを生んでいるのです。
モデルの違いがもたらす誤解――「治る」vs「遅らせる」本当の効果
“一生病気にならない”の幻想――ハザードモデルで考えると…
さらに重要なのは、病気によっては「治る」よりも「発症が遅れる」ことの方が現実的だという点です。
記事では、がんのような「年齢とともに誰もが発症しうる疾患」について、ハザード(危険率)モデルを用いて解説します。
つまり、遺伝子リスクを下げた胚を選んでも、「病気になる年齢が数年遅れる」だけで――ほとんどの人は生涯のうちに発症する、という現実があるのです。
引用:
a person that would have gotten the disease at age 50 now gets it at age 53, a person that would have gotten it at age 70 now gets it at 74.5…the benefit of the intervention is larger later in life and for people who are already at low risk.
(出典: Embryo selection: what we talk about when we talk about risk)
平均的には“寿命のうちに病気になるまでの期間が数か月~数年延びる”だけ。
「がんになるはずだった人がならなくなる」とは全く違うのです。
また、これを「相対リスク減」で表すと20%など見栄えのいい数字に見えますが、「実際の健康寿命増加」は非常にわずか(数か月単位)である、というシュミレーションも示されています。
一般の期待と実際の効果のギャップを考える――“確率的な奇跡”の過大評価
ではなぜ、これほどまでに「胚選択は革命的だ」という幻想が広がるのでしょうか。
著者は、有名な医療系ブロガーが「胚選択によるリスク減」を過大評価し、
imagine a drug that cures 10 – 40% of breast cancers with no side effects!
(出典: 同上)
のように書いている例を配しています。
実際には「発症年齢が少し遅れる」「重症化がわずかに減る」だけであり、「疾患“そのもの”を何割も治す万能薬」とは根本的に異なります。
もっと言えば、治療や感染症の“根治”のように、“健康と病気の二択”で考えられる場面と、
多因子・多段階な慢性病リスク低減を“同列”に語ることそのものが問題です。
私の考察――なぜ「胚選択のリスク減」を冷静に見極めるべきか
技術自体への過信が生む不健全な「希望」
現在、多くの胚選択サービスが販促のために「病気リスクが○%減!」「健康長寿の可能性!」を大々的にアピールしています。
一方で、実際の効果の多くはごくごくわずかな数値的な変化にとどまり、「本当に人生が大きく変わる」のはごく一部か、大数ゆえの例外にすぎません。
特に医療現場で長く課題とされてきた“線引きの問題”を、「胚の段階で選別すれば“完璧な健康”が得られる」と安易に結び付けることは、
・個人の「期待値」と現実のギャップ(=のちの絶望や不信)
・社会全体での資源配分や不公平問題
・「遺伝子で決まる運命」という“誤った決定論”の助長
といった副作用をもたらしかねません。
「期待を持つな」と言うつもりはありません。
しかし科学的に厳密なモデルを理解し、“どこまでが合理的な期待か”を一人ひとりが判断できる視点が強く求められるでしょう。
最先端分野こそ「モデル化の限界」への誠実さが不可欠
胚選択に限らず、医療/遺伝学における「期待値」「リスク」「ベネフィット」評価は、現実の生物学や社会の複雑さに大きく依存します。
モデル化と大規模統計が一気に使えるようになった今だからこそ、「モデル仮定自体の弱点」や「個人差の大きさ」に対する誠意のある説明と、批判的思考が必要です。
たとえば日本でも話題になった「大腸がんリスク遺伝子」やアルツハイマー、乳がんなども遺伝リスクの解釈が非常に難しく、「リスク低減」を1ビットで表すのは著しく科学的誤解を生みます。
結論――「目先の数字」に惑わされないために、いま私たちができること
本記事は、現代最先端の医療・テクノロジーが持つ「リスク」や「ベネフィット」の本質を、
“都合のいい統計モデル”と私たちの直感的理解とのギャップにもとづき痛烈に問い直しています。
・「20%リスク減」や「50%リスク減」などキャッチーな数字は、必ずしも「本来病気になるべき人が健康になる」ことを意味しない
・現実には、病気を“治す”のではなく、発症を“数年、あるいは数カ月遅らせる”だけの場合も多い
・線引き(閾値)は便宜上のものであり、健康と病気の間には連続体がある
・しかも個人レベルでの効果はごく限定的なことが多い
こうした視点から、「最先端の胚選択技術」の現状と限界に冷静に向き合うこと、
そして社会全体でも「過度な期待」や「根拠なき万能感」から距離を取り、
適切な情報リテラシーを育てる――それが、一人ひとりに求められている現代的課題だと強く感じます。
categories:[science]
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