この記事の途中に、以下の記事の引用を含んでいます。
Just-So Story (Wikipedia)
科学界でよく聞く「ジャストソー・ストーリー」とは何者なのか?
この記事は「ジャストソー・ストーリー」、つまり「もっともらしく聞こえるが検証不能な説明」について、主に生物学や進化心理学の文脈においてどのような意味と意義、そして批判があるかを詳細に論じています。
童話作家ラドヤード・キプリングの『Just So Stories』に由来するこの言葉は、もともと動物の特徴や自然現象にユーモアを交えて“説明”する物語形式でした。
しかし20世紀以降、「科学的根拠がないにもかかわらず、もっともらしい進化説明」への批判のためのラベルとして使われるようになりました。
今回は、この記事で示された多面的な議論を引用しつつ自分なりに考察し、「ジャストソー・ストーリー」批判の功罪について深掘りしていきます。
「証明不能な物語」への警鐘――主要な指摘とその意義
まず記事の定義から見ていきましょう。
“In science and philosophy, a just-so story is an untestable narrative explanation for a cultural practice, a biological trait, or behavior of humans or other animals. The pejorative nature of the expression is an implicit criticism that reminds the listener of the fictional and unprovable nature of such an explanation.”
(Just-So Story (Wikipedia))
ここでは、「科学や哲学においてジャストソー・ストーリーとは、検証不可能な説明物語であり、それが非難を込めて用いられている」とされています。
このラベルは特に進化生物学や進化心理学の分野で濫用され、「どんな現象でももっともらしい『進化的理由』で後付け解釈できてしまうのでは?」という批判にしばしば利用されます。
1978年には著名な古生物学者スティーブン・ジェイ・グールドが現代的かつ否定的な意味でこの用語を広め、進化心理学の理論的根拠の乏しさへの懐疑を強調しました。
なぜ「ジャストソー」批判がやや単純化されすぎるのか?
仮説と証明、科学の道筋を無視した一刀両断
記事中では批判的な見地に対しても多角的な検証がされています。
例えばDavid Barashはこう主張します。
“the term just-so story, when applied to a proposed evolutionary adaptation, is simply a derogatory term for a hypothesis. Hypotheses, by definition, require further empirical assessment, and are a part of normal science.”
(Just-So Story (Wikipedia))
つまり「ジャストソー」と片付けることは、科学的な仮説形成・検証というごく基本的な営みまでも否定してしまう恐れがあるのです。
John Alcockもこの語の社会的効果について「最も成功した否定的ラベルの一つ」と称し、その威力を認めます。
また進化心理学者のLeda Cosmidesらは、進化心理学的仮説がしばしば「後付け物語」どころか明確な予測を伴うと反論しています。
例えば彼女は妊娠中の味覚変化について「進化的適応説」と「副産物説」それぞれから予測される結果が異なることを例示し、「進化仮説は、たとえ既知現象の説明であっても新規に検証可能な予測をもたらしている。これこそが科学的態度として健全だ」と述べています。
「なんでも進化で説明」は本当に悪なのか?——多角的な考察
仮説駆動と物語駆動の違い
本記事でさらに重要なのは、科学的仮説の二つの構築アプローチについての解説です。
-
トップダウン(理論主導)
先に理論があり、その理論から具体的な予測を立て、それを検証する方法。 -
ボトムアップ(観察主導)
まず現象を観察し、その説明として仮説を組み立てる方法。
Al-Shawafらは「本当に問題なのは、現象の説明として新たな予測が生じないときだけが「just-so」だ」と強調し、「理論から仮説、仮説から予測」のルートに則る限り、“後付け物語”呼ばわりされる筋合いはないことを説きます。
科学とは「検証可能な新規性」を問う営み
進化心理学が「過去の進化史」を再現できないことを理由に「科学じゃない」とするのは、天文学や地質学にも当てはまる不当な二重基準です。
大事なのは、今あるデータで「予測」し、それが独立して支持されるかどうかです。
Lisa DeBruineが挙げた「進化ナビゲーション理論」の例などはまさにその好例です。
我々が高所からの垂直距離を過大評価すること(落下の危険を本能的に恐れる)という心理現象を、進化的合理性に基づき予測し、その予測が実験で見事に裏付けられた。
このように、「新規予測→検証→裏付け」というサイクルこそが、科学と“ただの物語”を分けるポイントだと思われます。
ラベル側のバイアスやダブルスタンダードも意識したい
また、適応主義的な仮説だけを「ジャストソー」と批判しがちなのは危険です。
Berryらが指摘するように、逆に「適応主義以外ならなんでもOK」「あえて否定してみせるための物語」を受け入れやすくなるバイアスもあるという指摘は鋭いです。
進化の過程で生まれた特徴がその後別目的で流用される現象(エクスアプテーションなど)は、もはや“最初の機能”が何であれ現状適応的なら十分説明力がある、という主張も説得力があります。
「後付け物語」批判の功罪――読者への提言
科学の物語には「吟味」と「寛容」が必要だ
この記事を通して筆者が感じるのは、「ジャストソー・ストーリー」批判は科学の健全性を守る“警鐘”である一方で、「ラベル」それ自体が思考停止をもたらすこともある、という危うさです。
科学において最も大事なのは、仮説→予測→検証→修正のサイクルです。
進化心理学も含め、どの仮説も“物語”であることに変わりありません。
しかし「新しい予測を投げかけ、それが検証されて初めて科学的仮説となる」のであって、「物語であること」それ自体を悪とすべきではありません。
“There is nothing wrong with explaining facts that are already known: no one faults a physicist for explaining why stars shine or apples fall toward earth… The strength of an evolutionary approach is that it can aid discovery: it allows you to generate predictions about what programs the mind might contain, so that you can conduct experiments to see if they in fact exist.”
(Just-So Story (Wikipedia))
この言葉が示唆するように、針小棒大な用語の濫用を避け、「仮説が本当に新しい予測能力を持ちえているか?」にこそ冷静な目を向けたいところです。
“使い分け”の感覚を常に
最後に。
科学の物語=仮説と、検証不可能で終わる物語(本当の「ジャストソー・ストーリー」)は紙一重です。
人間がストーリーで世界を理解する以上、科学者であっても物語的思考に無縁ではいられません。
重要なのは、
– 「その“ストーリー”が新しい実証可能な疑問を投げているか?」
– 「反証された場合、仮説を撤回・修正する用意があるか?」
この2点をいかに徹底できるか。
読者の皆さんも、今後「進化的な物語」や「心理学的な説明」に触れるときには、その物語が実験や観察結果にどこまで支えられているかに目を向けてみてください。
それこそが、“物語”と“科学”を分かつ本質的な分岐点なのです。
categories:[science]

コメント