この記事の途中に、以下の記事の引用を含んでいます。
Philosophy in Prison
1. 鉄格子の中の対話──「哲学は誰のものか?」を問う物語
皆さんは「刑務所」で哲学がどう役立つのか、考えたことがあるでしょうか。
決してドラマや小説の世界の話ではなく、実際に米国で行われている「刑務所哲学教育」の現場を生き生きと描いたのが、今回ご紹介する【Philosophy in Prison】の記事です。
この記事が注目するのは、大学生(Outsiders)と女性受刑者(Insiders)が一緒に哲学を学ぶ「Inside-Out Prison Exchange Program」の実践例。
授業は刑務所内で、刑務官の監視の下で行われるものの、そこでは従来の「受刑者を教化する」といった枠を超えた、むき出しの人間的対話が交わされます。
そこに現れる「本物の思考」、「真の平等性」、「社会の境界線の再編成」。
記事を追いながら、その深い意味を掘り下げていきましょう。
2. 刑務所で哲学──「内側」と「外側」に線はあるのか
記事では冒頭、「白いバンでやってくるOutsidersが、厳しいセキュリティを経て刑務所へ入り、制服姿のInsiders(受刑者たち)と一緒に机を囲む」場面から始まっています。
“Insiders and Outsiders intermingle and take their seats. Class begins.”
日本語訳:受刑者(内側の人々)と外部の学生たちが入り混じり、それぞれ席に着く。授業が始まる。
形式上は「哲学入門」というタイトルの授業ですが、そこにあるのは「厳しい規律」や「教える側/教わる側」といった上下関係ではありません。
InsiderもOutsiderも「同じTシャツ」を着て、毎週「一番バカバカしい靴下自慢大会」(silly socks)という儀式まで設けて距離を縮めます。
教科書を読み合わせるだけでなく、「何もかもが嘘だとしたら?」といった問いからリアルに語り合い、古代哲学の比喩(プラトンの「洞窟のたとえ」)を自分たちなりに「即興劇」で演じてみることも。
記事の中でも印象的なのは、現場で生じる“冗談”や“反省”だけでなく、
「自分の15年の受刑生活の現実」と
「外から来た大学生が思い描く正義や社会」との“距離”や“ズレ”が時に率直に語られること。
例えば、受刑者のJennyの「現実」に対する発言――
‘You are a prisoner, and you’ve been in prison 15 years because you decided to get into your car when you were too fucked up and you ran over somebody. That’s reality.’
(あなたは囚人で、15年も刑務所にいる。それは酔っ払って車を運転し、人を轢いたから。それが現実よ。)
「どうせ嘘ばかり」という若者たちのSNS批判なども、受刑者にはピンと来ない。
片や「フェイクニュースやQアノン」「キャンセルカルチャー」。
片や「Bo-Bos(刑務所靴)」や「dry snitching(遠回しな密告)」という、外部には馴染みのない現象――。
そこから“世界の複数性”や、“現実=社会が強いる枠組みの脆さ”が鮮やかに浮かんでくるのです。
3. なぜ「壁の中」の哲学が意味をもつのか
歴史的背景
実は、哲学と「監獄」との結びつきは古くからありました。
記事中には、数多くの有名な哲学書が「獄中」で生まれた事実が並びます。
“Martin Luther King Jr’s oft-quoted ‘Letter from Birmingham Jail’,… The Consolation of Philosophy, written by… Boethius… Bertrand Russell’s Introduction to Mathematical Philosophy, written during a six-month stint in Brixton prison… Ludwig Wittgenstein was a prisoner of war…”
マルティン・ルーサー・キングやボエティウス、ラッセル、ウィトゲンシュタイン……。
正義・知恵・真理を追究した多くの知識人が、極限状態でこそ〈哲学〉を深めた、とも言えるのです。
現代の刑務所哲学教育
ここ十数年、米国を中心に「刑務所での高等教育」プログラムは確実に広がってきました。
Inside-Out Prison Exchange Programに加え、ジョージタウン大学、バード大学、イェール大学等でも、刑務所内で本格的な授業を展開。
中には哲学専門の団体も現れてきました。
では、こうした活動はどんな「意義」を持ちうるのか。
ひとつには単なる「囚人の更生」や「道徳矯正ツール」としてではなく、
「社会の中心から排除された人々を、本当の意味で“公共圏”に引き込む」場・契機としての役割があります。
“Equally important is the responsibility of the liberated to return to the cave to see to the liberation of others…”
プラトンの「洞窟のたとえ」が象徴するように、
社会の既存枠組みを出て「自身が見た〈真実〉を、他者にも伝える」責任──
その現代的実践として、刑務所哲学は注目されているのです。
4. 筆者が考える「哲学の公共性」と現代教育への問い
個人的にこの記事の最大の魅力は、「教える側」「学ぶ側」という図式を、痛快に破壊してみせた点にあると考えます。
記事では、ジェネレーションZ(デジタル世代)の大学生の“多様性アピール文化”についても疑問が呈されました。
“It’s not clear, however, that an aptitude for a productive exchange of differing views belongs alongside these virtues… diminishing engagement with a range of diverse perspectives threatens to turn the classroom into… an echo chamber: a place where you no longer trust people from the other side.”
きれいごとや承認欲求に傾きやすい現代の若者文化、「違いを聞く訓練」すらされていない現状への危機感。
けれども「外側の学生たち」が刑務所の中に入ったとき、
そこでは「議論の前提」や「承認を求め合う空気」が消え、むき出しの対話が立ち上がる。
まるで、空気が一変するかのように──。
その「空気」を可能にしているのは、
①リアルな人生体験の違いがごまかせないフィールドであること
②情報技術に恵まれない受刑者たちの“ノートと手書き”の積み重ね
③そして「周囲の評価より、自分の頭で考え、他者の現実とぶつかる」ことを後押しする場を巧みに創出している授業設計
といった複合要素です。
また、「刑務所制度は廃止すべきか」など、難しいテーマも隠れない。
普通の大学では表面化しにくい、「現実に縛られた実感」と「イメージ先行の外部からの批評」が流動的に交錯し、
受刑者も外部学生も、立場へのラベリングを越えて本気で「理解し合おう」とする“転換”が生まれています。
驚くべきは、たった数週間の対話で「囚人=更生されるべき弱者」「大学生=教える強者」といった単純図式が消滅し、
受刑者と外部学生、どちらも「社会の枠がいかに、自分の現実認識を限定するか」を肌で感じ始めていること。
これは、「哲学教育は何を目指すべきか」という現代教育への問いかけでもあります。
5. 壁は壁たりうるか──読者への示唆
この記事が私たちに投げかけているのは、「哲学や思考の本当の解放はどこから始まるのか?」という根本的な問いです。
刑務所は、決して“特別な世界”ではなく、
むしろ「社会的ヒエラルキー」、「情報格差」、「現実の多層性」がむき出しになる、ある種の“縮図”です。
そこで生まれた「真剣勝負の対話」には、大学という閉じた空間では得難い“衝突”や“共感”、“再発見”が満ちています。
単なる「道徳更生」や「社会構造のなぞり」ではなく、
「話す」「聞く」「自分なりの現実を再構成する」──その鍛錬が、
哲学という営みと社会を結び直す媒介となっているのです。
しかも、そこでは「外から学びの光を持ち込む」だけでなく、
“解き放たれた者は必ず洞窟へ戻り、他者とともに新たな世界へ進む責任がある”という、
プラトン的な「公共的使命」が現実化しているのです。
これからの時代、「公共哲学」や「社会参画」とは何か?
一方的な教化・救済モデルでも、表層的な多様性でもなく、
「ある種の隔離や断絶を超えた本物の思考の場・対話の場」こそが、教育や社会に本当に必要なのではないでしょうか。
刑務所という閉ざされた空間でこそ開花した哲学の姿は、
私たち自身の日常や、社会的分断の克服にも、強いヒントを与えてくれるのでは、と感じます。
categories:[society]
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