脱線の魅力と意味――「The Utility of Digressions」から読み解く人間らしさの本質

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この記事の途中に、以下の記事の引用を含んでいます。
The Utility of Digressions


「寄り道」が示してくれる思考の豊かさとは?

今回取り上げるのは、Rubenerd氏によるブログ記事「The Utility of Digressions」です。
タイトル通り「digression(脱線)」――すなわち話が本題から逸れること――そのものを積極的に評価し、脱線が持つ意味や楽しさ、特に「人間らしい文章」としての価値について論じています。

今や生成AIが発達し、人間とAIの書き分けが難しくなって久しい今、「人」ならではの文章表現はどこにあり得るのか?
そのヒントをくれる示唆に富んだ記事です。


驚きの主張:「脱線こそ、人の言葉の証しである」

Rubenerd氏は、ネット上でよく目にする「ブログは単一のトピックに絞れ」というブロギング術に異議を唱えます。

“I wish I could remember that self-anointed blogging “expert” I read years ago, but their comment that blogs should focus on a singular topic remains the worst piece of advice I’ve ever read. Digressions and tangents are one of the key ways that human writing is interesting.”

彼は「ブログは一つの話題に集中すべき」という“常識”を「最悪のアドバイス」とバッサリ切り捨てています。
そしてこう述べます――「脱線や寄り道こそが、人間の書くものを面白くする主要な手段のひとつだ」と。

さらにYouTuberのEvan Edinger氏の動画も引用したうえで、こう続けます。

“Tangents at this stage are a pretty good sign of human writing, as our minds can make relevant connections to other things we know, to make conversations that much more interesting.”

つまり「この時代(=AIによる自動生成が蔓延する今)、寄り道は人間が書いたことの良い証拠だ」と明言しているのです。


なぜ「脱線する力」は現代において価値があるのか?

Rubenerd氏の主張は、単なる「話が広がった方が面白いよね」という軽いノリではありません。

記事が問題意識としているのは、AIによる大量生成時代で「どれが人間らしい文章か?」という問いです。

現在、AIライティングの良し悪しを論じる場面で最も多い誤解は「整然として論理的で曖昧さのない文章=良い文章」「筋が通っていることが最重要」という考え方でしょう。
しかし現実の人間同士の会話やエッセイには、脱線、寄り道、時には冗談や意図せぬ飛躍が自然なかたちで組み込まれます。

AIテキストは、どうしても「目的」や「照準」が浮き彫りになりやすく、無駄がなく合理的ですが、裏を返せば「狙いすました整然さ」から“生きた個性”や“偶然の面白さ”が失われやすい。
Rubenerd氏が「脱線や唐突さ、無駄話」こそが人間らしさだとする理由は、まさにここにあると思います。

私たちが好きな小説やエッセイ――村上春樹、三島由紀夫、スティーヴン・キング、村上龍、カズオ・イシグロ――いずれも「本筋とは直接関係ないエピソード」や「個人的な感情」「さりげない回想」といった寄り道が多用され、その寄り道の「行間」や「余波」が読む者の心に残ります。

Rubenerd氏は以下のような実例も挙げています。

“A FreeBSD developer talking about astronomy; an anime fan mentioning how much they love antique toasters; a software engineer sharing their photos; it’s all wonderful.”

すなわち、技術系の話が宇宙論へ、アニメ好きがアンティークトースターの話題に…
専門性が交差し、パーソナリティがにじみ出る瞬間です。


「効率至上」への批判と、脱線が生み出す創発

現代のネットコミュニケーションでは「効率」や「一点突破」が重んじられ、「話を広げるな」「要点だけ端的に」という圧力があります。

例えばYouTubeのコメント欄やTwitter(X)など、特定の話題から外れると「それはここで語ることじゃない」といった反応・誹謗がつきものです(Rubenerd氏やEvan Edinger氏も実際に批判コメントを受けていると述べています)。

しかし、脱線や寄り道が全く許されない“効率重視社会”では、思いがけない新しい発見や共感――まさに「創発的コミュニケーション」は失われてしまいます。

人間の脳はもともと、一つの話題を器用に他の話題と“関連付ける”よう進化しています。
強引に一つの主題に固執するAI文章には、この「偶然のクロスオーバー」が極めて起こりにくい。
それが人間相手の雑談や、読者をワクワクさせるストーリーテリングの本質的魅力と言えるでしょう。


「脱線力」がもたらす豊かな読書体験――私の考察

私自身、長年にわたりさまざまなエッセイや物語、技術系記事、小説などに親しんできたなかで、「脱線」や「寄り道」こそが読書体験に深い印象を残す要素だと感じています。

たとえば、村上春樹のエッセイではジャズの話からコーヒー、さらには突然の海外旅行の思い出に脱線していく――その「逸脱の妙」こそ、著者の人柄や生き様がにじむ醍醐味です。

AIエッセイ生成サービス(ChatGPTを含む)に「個性的なコラム」を依頼してみると、多くの場合テーマに忠実・論理一貫ですが、「なぜ今この話?」と思える脱線や、突発的なジョーク、個人的な回想が挿入されることはほとんどありません。
それは「誤読」や「実体験がない」こと以上に、意図的か無意識的かを問わず“予定調和の外側”へ踏み出す勇気がAIには備わっていないからだと思います。

Rubenerd氏の最後のくだりに登場する「WENSLEYDALE!」という突飛な叫び(イギリスのチーズの名前)は、その最たる例です。

これは文脈的には何の意味も持ちません。
しかし、「月についての話なのにズボンの話になったり、牛乳じゃなくてチーズだ!」
こうした無意味な逸脱、突飛さ、シニカルな遊び心こそが、「これは確かに人間の声だ」と実感させる決定打になっています。


本質的な問い:高度AI時代の「人間らしさ」とは何か?

このエッセイが読者に訴えかけているのは、「脱線を許さない効率主義が本当に豊かな表現をもたらすのか?」
そして、「人間らしさ」は“論理の美しさ”や“整理された知見”ばかりで生まれるのではない、ということです。

情報が洪水のように押し寄せるデジタル時代だからこそ、二度と再現できない偶発的な寄り道、筋書きの読めない関係性、個人のリアルな体感や思い出といった「脱線力」の大切さを見直したいものです。

特に、今やビジネス文書も教育も「AI的な正しさ・効率性」に覆われつつありますが、一見無駄に見える離脱や、不用意な迂回路こそが、イノベーションや深い共感・記憶を残します。

読者のみなさんにも、何かの話題について徹底的に掘り下げるだけでなく、たまには「本筋から思い切り脱線してみる」ことの楽しさ、そして価値を思い出してほしいと思います。

無駄なようで無駄じゃない――「脱線」という小さな海路が、どこかで人生を変える宝物につながっているのかもしれません。


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