「学歴主義の終焉」がもたらす社会大変革──本当に必要なのは「選抜」と「真の能力」だ

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この記事の途中に、以下の記事の引用を含んでいます。
The End of Credentialism


学歴や資格の時代は終わるのか?新しい時代への問いかけ

社会人になって、あるいは大学受験を控えると、私たちはしばしば「学歴社会」「資格狂騒」とでも言うべき現実と向き合うことになります。

「良い大学を出れば、良い仕事に就ける」
「資格をとれば人生が変わる」

こんな常識があまりにも根強い日本社会ですが、アメリカでも40年以上にわたって同様の「クレデンシャリズム(Credentialism:資格・学歴偏重主義)」が広がり、就職や昇進はもちろん、社会的な信用にも大きな影響を与えてきたことがわかります。

ところが、今回ご紹介するThe End of Credentialismという記事は、
「Credentialism has polluted the American psyche for generations, and it has impaired the functioning of the job market and the government in the process.」
と、クレデンシャリズムがアメリカ社会を汚染し、労働市場や政府の機能不全を招いてきたと指摘します。

これは決して思いつきの逆張り批判ではありません。

長年積み上げられてきた「学歴や資格の信仰」に対し、最新のデータや時代背景をもとに、その本質とこれからの社会の方向性まで踏み込む、非常に示唆に富んだ論考です。


資格主義の正体──“Peer Review”と同じ「権威の洗浄装置」だった?

「credentialism(資格主義)」の問題を論じるとき、記事ではまずアカデミアの象徴的制度、「ピアレビュー(査読)」に言及します。

記事からの引用です。

“Peer review ostensibly improves the credibility of scientific works and helps to prevent fraud while keeping the standards of published research in different fields appropriately high. But it does no such thing; it amounts to little more than an expensive attempt to make the status and opinions of academics sacrosanct.”
The End of Credentialism

つまり「ピアレビューは、科学的信頼性を高めるどころか、学者という権威の地位や意見を洗浄(正当化)する高額な儀式にすぎない」とバッサリ斬っています。

記事ではさらに、巨額の投資や査読の導入にもかかわらず、
「In all sorts of different fields, research productivity has been flat or declining for decades, and peer review doesn’t seem to have changed that trend. 」
つまり、多くの分野で研究の生産性は横ばいかむしろ低下し、ピアレビューの導入はこうした問題に寄与していない、と指摘します。

ピアレビューと資格主義の共通点は、「権威」を多重に正当化することで社会的な安心を与えるものの、結局はコストや形骸化が蓄積されていくという点にあります。


学歴・資格への依存が社会にもたらしたひずみ

では、なぜ「資格」や「学歴」が価値を持つようになったのでしょうか?

記事はこう述べています:

“With every incremental, seemingly inexorable, increase in the job market’s demand for degrees, the need to obtain one became greater and more real.”

“The dire need for a sheet of paper certifying an individual had wasted enough of their life in a slog through a mixture of irrelevant general ed courses and cursory coverage of specialized material that wouldn’t be useful to most became so self-justifying that outlets started talking about concepts like a “degree gap”—a supposed deficit in the proportion of the population earning degrees relative to the proportion of jobs requiring them.”
The End of Credentialism

つまり、雇用主が学歴や資格を次々に求めるようになることで、それ自体が「生きていく上で必須」となり、多くの人が人生の輝く時間を「無意味な課題の消化」と「役に立たない知識の詰め込み」に費やす状況が常態化してきたのです。

加えて、この「資格や学歴」のインフレは本来「できる人材を選抜」する機能をむしろ失わせてきたと指摘します。


真のメリトクラシー(能力主義)とは何か?テストは忌み嫌われても最も公平か

記事では、「クレデンシャリズム」は「選抜(Selection)」の衰退と表裏一体だとしています。

「選抜」とは、

“Selection is the use of tests, work samples, and other assessments to figure out who among a group of job candidates is the most qualified for a job.”

つまり、テストや業務サンプルなどの公正な評価を通じて最適な人材を見極める本来的なプロセスです。

そして一番信頼できる指標は「コグニティブテスト(認知能力テスト)」であり、

“Cognitive tests can be—and generally are, for most use-cases—unbiased, meaning that conditional on a given level of ability, the results of tests are the same across groups. No one has found any other tool that can be used without injecting substantial bias into selection processes generally.”

「実際、学歴・資格・面接などよりも認知能力テスト(SAT、ACTなど)の方が人種・階級などからのバイアスが入りづらく、有資格な人のみを公正に抽出できるのだ」と述べられています。

ただし、これにより「恵まれた家庭の能力のない人」や「不利なグループの能力のない人」も公正に排除されてしまい、不満が高まる結果となってきた現実があります。

そのため、真の能力よりも「資格の取得」の方が社会的に“ラクにゲーム化”できてしまい、また「資格取得者を優先することが平等」という感覚が根付いていった、という批判的な解説がなされています。


資格主義の時代に終止符──“選抜”復権の兆し

この流れを変えた画期的な動きの一つが、アメリカにおける公務員試験(civil service examinations)を禁止してきた「Luevano Consent Decree」の廃止を巡る政治的な動きです。

記事では、
「The End of Credentialism means the end of saddling 18-year-olds with debt and wasted years of youth, cordoned off from society at large.」
「With these artificial burdens replaced by quick and easy testing, we may see a rebirth of recreational activities geared towards young adults with money.」
と述べています。

つまり「学歴取得」の名のもとに10代・20代を抑圧し、多額の借金を抱えさせる時代が「簡単で公正な選抜テスト」の復権によって変わる可能性を示唆しているのです。

この動きは「アファーマティブ・アクション(人種・性別による優遇)」や、「DEIプログラム(多様性・公平性・包摂性)」のような施策が持つ弊害にも警鐘を鳴らしています。

特定のグループを“優遇”することで、「能力面で不合格になるはずの人材が上に立つ社会」が生まれてしまい、「本当は能力あるが非伝統的な背景を持つ人」が排除される逆転現象が起きる危険性すら論じています。


「資格」から「能力本位評価」へ──日本社会への示唆

この記事の主張を日本の現状に当てはめて考えてみましょう。

日本もまた「学歴社会」や「資格偏重」から逃れられていません。
新卒採用の9割以上が学歴フィルターで篩い落とされ、上場企業の管理職昇進にも「簿記」「宅建」「TOEIC」など資格ハードルが必須化している例が珍しくありません。

しかし、損保ジャパンなどの「不適正な人材抜擢」や、国公立大学進学率爆上げ時代の社会的無気力(「燃え尽き症候群」や「学歴ロンダリング」問題)を見ても、資格/学歴至上主義が万能でないことは明らかです。

もし「本当に全員に公平なテスト(=真の選抜)」による評価文化が浸透するなら、日本はどう変わるでしょうか。

想像しやすい実例は2つあります。

1. 採用・昇進が「短期集中型能力評価」中心に

資格取得ではない「汎用能力テスト」や「実技評価」が主流となれば、例えば中卒・高卒であっても高い能力を持つ人材が抜擢されやすくなります。
イクメンや介護を理由に短期間しか自己研鑽できない層が評価される道も広がります。

2. 若者の人生設計や消費行動の激変

「良い大学→安定した仕事」のレールを外れ、早期から“働きながらスキル獲得”や“起業”に挑戦しやすくなります。
数百万円の学費を将来への不安ではなく、自己投資や趣味、旅行、起業資金へと再配分できる社会が広がる可能性も。

ただ、その反動として「多様な生活・価値観」が噴出し、“格差”や“社会的評価”の軸に再び混乱が起きるリスクがあります。


資格主義の終焉が投げかける「責任」──大人も自分で“人を見る目”を養え

記事のラストはこう語ります。

“The End of Credentialism means people will have to think and exercise judgment beyond evaluating people’s degrees. To judge by merits means to judge without shortcuts.”
The End of Credentialism

つまり、資格や学歴という「ショートカット」が失われれば、私たちは「この人は本当に優秀か?信用できるか?」という難しい判断に自ら向き合わねばなりません。

日米問わず、少子高齢化・グローバル化・AI時代という大変革の渦中にあります。
この記事が主張するように「credentialism is a fallback when the project of civil society fails(資格主義は市民社会の失敗に対する“保険”)」という現実が、いかに根深いものか、個々人の判断力強化こそ次の時代の鍵であると強調したいと思います。


おわりに──「選抜」と「社会的信頼」が両立する新しい秩序は築けるか?

「学歴」や「資格」は、たしかに社会の合理化・効率化の一つの解でした。
しかし、「形骸化した指標」だけに依存すれば、無能な権威や名ばかりの専門家を量産し、「真に必要な能力」「信頼できる人材」を見逃してしまうリスクも孕みます。

「資格主義の終焉」論が現実となれば、
– “選抜による公平な機会”
– “多様な人生設計”
– “個人の判断能力と責任意識の醸成”
という理想に近づく半面、「一次的な混乱」や「新しい“能力フィルター問題”」との格闘も避けられません。

いずれにしても、日本を含め世界が「資格」「権威」から「能力」「成果」への本格的なシフトを迎えることは避けられない情勢です。

今、どんな目で“人を見るか”“自分をどう鍛えるか”
それが個人にも社会にも問われている、と痛感させられる論考でした。


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