この記事の途中に、以下の記事の引用を含んでいます。
A Hidden Camera Protest Turned the Tables on China’s Surveillance State
目撃者はいない?いいえ、“監視カメラ”がすべての現場を記録していた
中国は世界でも有数の監視社会として知られています。
そのコントロールの網の中で、市民がどのように抵抗するのか。
今回紹介するニューヨーク・タイムズの記事「A Hidden Camera Protest Turned the Tables on China’s Surveillance State」では、そのあり方を根本的に問い直す、とても示唆的な抗議活動が取り上げられています。
“監視を逆手に取る”──記事の主張とキーワード
まず本記事が伝えたい核となるメッセージを見てみましょう。
“The act was both a protest and a performance, documented in real time. The protest, staged through light and cameras, turned the state’s gaze back on itself. The visuals, when put together, had the look of performance art mocking the Communist Party security apparatus.”
— A Hidden Camera Protest Turned the Tables on China’s Surveillance State
この引用から分かるように、Qi Hong氏による抗議は「抗議活動であると同時に、パフォーマンスアートでもあった」と述べられています。
しかも、活動はリアルタイムで記録され、通常は国家が国民を監視する「視線」を“逆転”させたのです。
また、記事では彼が警察宛に残した手紙の内容も印象的です。
“Even if you are a beneficiary of the system today, one day you will inevitably become a victim on this land,” said the letter… “So please treat the people with kindness.”
“今日システムの恩恵を受けている人間であっても、いつかは必ずこの土地で被害者になる。”
このフレーズは、現状に安住する危うさと、“過度な監視”がもたらす人間性の喪失という、普遍的な警告とも受け取れます。
驚きのプロテスト、その仕組みは?──国家の「目」を嘲笑する仕掛け
Qi Hong氏が実行した抗議の内容を整理しましょう。
彼は中国・重慶の自宅に警察宛ての手紙を残して国外(イギリス)に脱出。
プロジェクターや隠しカメラをセットしておきます。
やがて、警察が彼の母親宅を訪問して取り調べる様子が「現場映像」として自動的に記録され、イギリスにいるQi氏にリアルタイムで伝送されたというのです。
この全プロセス自体が “パフォーマンス”であり、“抗議”であり、“記録”でもあるという多重性。
しかも、その舞台装置の中心には「監視装置=カメラとネットワーク」が据えられている。
つまり、国家の監視社会を支える象徴的な“技術”が、今度は逆方向に「抵抗のツール」へ転化されたのです。
この構造が含意するものはとても大きい。
それは、テクノロジーの「用途」は一義的に“支配”や“制御”だけではなく、“抵抗”や“風刺”など人間的な創造性にも回収できる――という事実です。
“監視”の逆利用で見えた、現代テクノロジーの意義と危うさ
この記事の持つ最大のメッセージは、“監視ツール”が必ずしも政府の独占物ではなく、逆に個人の抵抗、風刺、さらには社会的なメッセージの発信にも使える点です。
中国ではAIによる顔認識や群衆解析、バイオメトリクスなどの高度な監視技術が市民管理に用いられていると広く報じられています。
実際、警察権力がこうした装置を“犯罪取り締まり”や“社会安定”の名の下、日常的にフル活用しています。
けれども、Qi氏のケースが示すのは“全く逆方向のクリエイティブな活用”。
言い換えれば、監視カメラが「国家の目」として機能するだけでなく、「市民の武器」にもなりうることを白日の下にさらしたのです。
現実に、海外の民主化運動や市民運動の中では、スマホ動画やライブ配信が“証拠”や“告発”ツールとして普及し、市民が「記録者」としての地位を占めるようになっています。
かつては権力者だけが使えた“監視・記録技術”がパブリックな手段となったことで、パワーバランスが部分的に変動してきている証拠とも言えるでしょう。
とはいえ、ここで無邪気な“監視技術礼賛”には注意が必要です。
中国の現行の監視体制は圧倒的な規模と密度で、記録した本人すら知らないうちに「証拠」として利用されるリスクも孕んでいます。
また、監視装置を市民が逆手に取るアクション自体が(権力側の強烈な弾圧の標的になりやすいなど)命がけであることも忘れてはなりません。
さらに、ネットワークやIoTが拡大すれば、当然“抗議”も“弾圧”もスケールアップする両義性がある。
Qi氏のような“技術へのアイロニー”、つまり国家の装置そのものを使って国家権力を風刺する手法が登場する一方、権力側がAIとビッグデータで「抵抗者」をより効率良く摘発するリスクも増すでしょう。
もし日本だったら?技術・監視と個人表現の現在形
この事例を日本や他国の状況に当てはめてみましょう。
監視社会というキーワードは、近年の防犯カメラ増設、マイナンバー、オンラインプライバシーなど私たちの日常にも入り込んでいます。
特に技術が進歩した今、善悪両方の側面で「市民の武器」であり「権力の刃」にもなりうる。
では日本でもこうした“逆監視”は成り立つでしょうか。
原理的には技術的制約は少なく、SNS発信や動画公開の文化も根強い。
ただし、法的規制や個人情報保護、さらには社会的な同調圧力など、制度・文化的なハードルも多い。
また、中国と異なり(今のところ)国家による“直接的・全面的な監視”は比較的少数ですが、それでも技術が進めばどんな社会も“距離ゼロ”の監視社会化が加速します。
ここで肝心なのは「技術の使い方」(=誰が・何のために・どう運用するか)と、「市民の情報リテラシーや主体性」が問われるということです。
衝撃の“可視化”から考える、私たちの「視線」と「抵抗」
Qi Hong氏のプロテストは、監視社会下における市民表現や、テクノロジーの使い方に再考を迫る強いインパクトを持っています。
何となく「監視カメラ=悪」と考えがちですが、その使用法の幅、技術の逆転的活用には驚かされます。
テクノロジー自体はあくまで「中立」。
それを選び、運用し、意味づけるのは常に「人間」であり、また制度や文化です。
最も大切なのは、「私たちがどれだけ自身の“視線”や“記録”の力を知り、その適切な使い方を考えているか」ではないでしょうか。
本記事から学べる最大の教訓は、「監視は常に一方通行とは限らない」という認識。
そして、個人の創意と勇気、テクノロジーの発想次第で、どんな“力”も思わぬ形で社会を変えうる──そんな希望を感じさせる事例と言えます。
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